エッセイページ2
テレビの見方(木村太郎の講演)

 元NHKのニュースキャスターであり、退職後は民放のニュース番組も担当された木村太郎氏の講演がありました。NHK特派員時代にはワシントンD.C.に住んだ親米派であり、また、パリに在住したことから、フランスに対する思い入れもひとしおという国際派です。75才、まだまだ元気いっぱい、、という感じでした。

「テレビの見方」という演題です。NHKの駆け出し記者時代に接した大きな事件、「浅間山荘事件」や「日航機御巣鷹山遭難事故」の時に、民放のCH8フジテレビに機器の使い方で負けた話は、臨場感たっぷりで、当時を知る年齢の女性が多い会場の聴衆をしっかりと引きつけました。

CH8はスポーツ中継がメインの局であったために、当時まだ少なかったビデオ機器を用い、中継車を使ってリアルタイムに放送することをやっていたのでしたが、スポーツ中継で使うこの機材を、ニュースの現場で活用するという機転があり、それを実行できたのが大きな違いだったのだそうです。

NHKはじめ他の局は、カメラ取材班を現場に行かせ、そこで撮影したフィルムを大急ぎで手近な局にバイク便で届け、それを現像し、本社に送って放送するといった手法をとっているなかで、CH8はビデオカメラと中継車を使って3時間も早く放送することができたということでした。自衛隊ヘリによる生存者の救出画面を、いち早く放映できたのですから、もの凄い特ダネです。1980年頃からPCに興味を持ち、機器を扱ってこられた氏は、このことを今でも、とてもとても悔しそうに話されました。

デジタル機器の進歩で、このような話は、昔話になってしまったのですが、振り返って現在のTV番組に目を向けてみると、TVの主力であるバラエティ番組に品がなくなり、いじめや差別を感じさせる画面も多くなっていることから、視聴者から呆れられ、若い人や知識層のTV離れがひどくなっているということでした、さもありなんと思います。

ニュースは今やインターネットにおくれを取り、スポーツも特定の局の都合によって、放映されるものが偏ったりしています。TVの主力であったバラエティ番組も、かっての「夢であいましょう」のような品の良いものはなくなり、芸人達の裏話や悪口、はては下ネタなどでしめられています。これでは見る人が減り、最終的にTVが衰退

ニュースは今やインターネットにおくれを取り、スポーツも特定の局の都合によって、放映されるものが偏ったりしています。TVの主力であったバラエティ番組も、かっての「夢であいましょう」のような品の良いものはなくなり、芸人達の裏話や悪口、はては下ネタなどでしめられています。これでは見る人が減り、最終的にTVが衰退していくのは当たり前でしょう。事実、広告収入なども、すでにネットに接近されていると言うことでした。

これからのTVは、ニュースをいかに見せるか、スポーツをどこまでリアルに写すかということが主な仕事になっていくということでした。しかし、あの東北大震災の時の福島原発事故報道でも、TVニュースはネットよりはるかに遅く、写真もなく、その場しのぎであったことは事実ですから、今後のニュース部門は、はたしてどうなのでしょうか、、大いに疑問です。官僚達の作文や政府発表を、嘘っぽいと見抜く力が、今の記者達に残っていることを期待したいものです。

視聴者がそれぞれの観たい物を勝手に選択し、いつでもどこでも見ることができるようなお膳立てをしつらえることが出来るかどうかが、これからのTV存続の鍵となるのでしょう。ここで氏は映画配信のHULU(フールー)を紹介されました。時々利用されるのだそうです。

アメリカではすでに10年以上も前から、一日中裁判所の公判を写し続けるものや、ニュースや料理番組や各種映画をず~っと流しているものがありました。日本でもこれからはスポーツクラブは自前のチャンネルを持ち、自分のチームの試合を映し続けるというようになるでしょう。視聴率がなんの指標にもならない時代が、もう始まっているのかもしれません。

今現在、TVを見ている時間が最も長い人たちは、「60才以上の老人男性」なのだそうです。退職し、これといった趣味もなく、TVしかお友達がないジジ男性が、これからドンドン増えていくと思うだけで、なんだかげんなりしてしまいました。
便利なようで様々な危険を内蔵しているインターネットの行方も、茫洋とした灰色の雲が立ちこめているようで、あまり明るくはありません。カラ景気で浮かれている世の中のように、いつダメになるかと不安だらけで、落とし穴がいっぱいあるように思いました。(2013.5.14.)

  

佐藤愛子の生き方 (浜松講演会) 

1923 年生まれ、89才と知って驚きました。歩き方に弱々しささが無く、壇上に上がる階段もごく自然に踏み、すっと席に着いた姿勢は、自然で鮮やかでした 。90才ともなれば、いかに元気であっても、車いすを押してもらって登場したりする人 が多くなる、その先入観を見事にへし折られたような姿に、満場の聴衆は驚嘆してざわめきました 。

佐藤愛子、、年配の方々なら良く知っている名前です。近年は「血脈」という長大な自伝的小説を発表していますから、若い方々の知名度も高いかも知れません。自身の2度の結婚の失敗、特に2番目の夫の倒産と借金にまつわる話を、憤りをもって書き上げた「戦いすんで日が暮れて」が直木賞を受賞してから現在まで、数え切れないほど多くの小説を発表し「男に頼らないで生活すること」を実践してきた戦中派女性の一人です。父、佐藤紅緑から受け継いだ文才で、自身のやくざ的とも思える常識とモラルを満載した作品で喝采をあびてきました。

講演は「佐藤愛子の生き方」と題するもので、そのオトコ的とも言える話し方は、「竹を割ったような」、という古い言葉が一番当てはまる調子で、たちまち聴衆の心を掴みます。

曰く、今の時代は、人とまったく話をしなくても、無言で買い物ができ、生活が成り立っていく、年寄りが家庭で役に立つことがなくなって、核家族が当たり前になり、老後の孤独がまっているばかり、こんな世の中が普通となり、それが常識となってしまったら、日本の将来は変質していく、人に頼ることばかり考え、自分を鍛えないでいる日本人の生活はどうなっていくのか、、

エッセイに「フリコメ詐欺にかかる人はバカだ」「貧乏人が分不相応なことを望むから生活が破綻したりする」といった差別的と言える用語をあえて使ったところ、ネットで大いに叩かれ、抗議をうけていると友人が警告してくれた、しかし、「私はネットなどというものを全く見ないので、何の痛痒も感じない」とさらりと言ってのけました。とても心の強い人なのでしょう。年老いて知った人がいなくなり、非常に寂しく落ち込むことはないのかという質問に「寂しいのは毎日で、それは当たり前、考えたってしようがないデス」(笑)。

やりたいことは総てやれて、あとは「ああ楽しかった」といって死にたい、、、まさに理想です。そうありたいと思いつつ、そうはなれない人のなんと多いことか。彼女の恵まれた体力と気力、それを鍛え続けてきた精神の継続力に、おそれをなしてしまいました。

嫋々とした女性的な情念を廃し、世間的な常識を踏まえたうえで正悪をはっきりとさせる、そんな父親譲りの小説手法で大衆をつかんだ、ある意味、強運、幸運な作家なのだと思います。 戦争を体験し、あの過酷な混乱の戦後を生き抜いた人は、ただただ「強い」と痛感させられました。スゴイ老人です。(2013.1.18.)



シュトーレンのこと

シュトーレンという菓子パンをご存じでしょうか。クリスマスになると耳にする名前です。元々はドイツのドレスデンが発祥の地だとされていますが、今はドイツのみならず世界各地で知られるようになりました。

ブランデーなどに浸けておいた数種類のドライフルーツやナッツを、たっぷりのバターと一緒に練りこんで焼いた細長い大型のお菓子風のパンなのですが、普通のパンと違い、かなり重くて日持ちするのが身上です。

本場ドイツの伝統的な物は、一ヶ月常温に置いておいても悪くならないと言われるほどで、ブランデーとナッツ類、それに砂糖がしっかりと練り込まれた焼き菓子です。

日本では苺の載ったケーキをクリスマスに食べますが、ドイツではこのような菓子パンを家庭で手作りして、クリスマスを楽しみにして待ち、みんなで頂くものだったのでしょう。

以前に住んでいた大阪府下K市の隣りのH市に、「H」というベッカライがありました。ドイツで修行をしたという店主が作るドイツパンは、田舎風で素朴な味でしたからバターと相性が良くて大好きでした。

やや甘めの小ぶりのクロワッサンもとても美味しく、ゾンネンクランツという丸いバタークリームの白いケーキも、今風のふわふわした軽い物ではなく、しっかりとした重みがあり、目の詰まったスポンジが使われていて、これも好みでした。

そして毎年クリスマスの時期になると、ドイツ暮らしが長かった友人が、この店主の作るシュトーレンを必ず届けてくれていました。

「好き嫌いがあるお菓子だから、どうかしら?」と言いながら、「蘊蓄」と共に届けられたシュトーレンは、噛み応えがあるかっちりとしたパン生地に、沢山のフルーツとナッツが練り込まれた何の飾り気もないゴロンとした目方のあるパンでした。

切って食べてみると、しっとりとしているうえ、ナッツの口当たりがよくて香ばしく、ブランデーの香りがほのかにする奥深い味でした。

これはたとえて言えば日本古来の「ゆべし」という柚子に詰められた日持ちのする餅米のお菓子のようなもので、昔からの長い伝統を感じさせるものでした。上にたっぷりと白い粉砂糖が振りかけてあって、雪を被ったように真っ白になっていました。

キリストが生まれた時にくるまれた産着をイメージして白い粉砂糖がかけられているということでしたが、コーヒーにも紅茶にもぴったりと寄り添う豊かな味でした。

食べてすぐに「キャ~!オイシイ!」なんていうインスタントな味ではなく、いかにもドイツ的なガッチリとした味は滋味あふれるものがあり、いつしか好きになっていきました。

以来、シュトーレンの到来は12月の終わりを告げてくれるおいしくて小さな、私のクリスマスイベントになっていきました。

新しい土地に引っ越してきて、バタバタと日が過ぎ、一年目はシュトーレンという名前すら思い出さずに年を越しました。ようやく落ち着いた二年目、通い出したお料理の教室で知り合った若い方から、クリスマスの日に思いがけず手作りのシュトーレンが届いたのでした。

「うわ~!シュトーレンやないの!」と思わずわめいたのでした。それから毎年、浜松でもこのパンがクリスマスの日に届くことになったのです。なんたる幸運でしょう、、、

前の住み家を離れることに何の躊躇もなかったのに、かの地の友人とドイツパンから遠くなることが少しつらいな、、と思ったくらいですから、これはもう天が与えてくれたプレゼントといった感じがしたのです。

お菓子屋さんに行けば簡単に手に入るものですが、Hベッカライのものによく似たずっしりとした本格的な手作りのこのパンは、この地にきて数えた「幸せ」をひとつ増やしてくれました。

熱くそして深く淹れたたっぷりの紅茶と一緒に、少し厚めに切ったシュトーレンを頂く時間は、寒い冬の日に至福のひとときを与えてくれます。

「いっぱい褒めていただいたので、ず~と毎年お届けしますね、、」

絵文字でいろどられた携帯メールは、甘く香ばしい味とともに、寒さで固まってしまっていた老いた心を、少しゆるめてくれたように感じました。
2009.12.26.




墓所の移転に想う

全ての人間は必ずいつかは死ぬのだから、今生きている人達にとっては、死んだ後の安住の場所としての「墓」は、避けては通れないものの一つである。

今や死後の世界へのおそれやおののきはなくなってしまい、単に骨が土に帰る物理的な処置場所だという考え方の人も多い。かくいう自分も、既に骨の散骨場所を決めて、息子になかば強制的にそれを依頼してある。

映画「アマデウス」のラストシーン、栄光のはてに凋落し、貧困のなかで亡くなったモーツアルトの遺体が、雨の中で共同墓地に投げ込まれ、石灰の白い粉がその上にぶちまけられる様子が映し出された。人間の命のはかなさと無情さがよく出ていて秀逸な場面だった。

どんな葬られ方をしても、骨はいつかは砕け、土中深く埋もれ、溶け込んでいく。死者が誰であっても、その人を知り、覚えている人が絶え果てた時に、全てが終わりになるのだから、残った人たちの気が済むようにすれば、それでいいのだと思っている。

墓のある大阪から250キロほど離れた浜松を終の棲家とした私たち夫婦は、毎年数回は父親が建てた墓に詣でていた。それは、かって住んだ場所へ行くという楽しみでもあり、馴染んだ関西の料理を味わったり、買い物をしたりする口実にもなっていたのだ。

しかし、いくら二人とも高速道路を走ることが苦にならないといっても、「枯葉マーク」対象のトシになれば、いろいろ危ないことも多くなってくる、次に墓を守る人間も、そこにはもういない。「墓」の移転を考えようということになった。

連れ合いの父親は、昭和の初期に大阪の南の端っこの大きな公園形式の霊園に墓を作っていてくれたから、「仏教宗派」やお寺の意向などを考えることをしなくても、墓の移転ができそうだった。馴染みのない土地に墓を移すことに対して、義父への申し訳ない気持ちがない訳ではなかったが、実子である連れ合いからの提案であれば、許して下さるだろうと思うことにした。

新しい墓をこの土地で探そう!風の吹き渡る湖岸近くに市が開発した墓地公園があったが、すぐ横で産廃の埋め立てをやっているのを見て、なんとなくイヤな気分になったのでやめた。

しばらくして、幸いにも家に近い所で山地を切り開いた小さな市営墓地の募集があったので申し込んだ。浜松市になってから、応募が殺到し、残り少ないということだった。

近い将来、どちらかが入った時に、すぐにお参りが出来て、一人になった寂しさが少しでも紛れるなら、近いところがいいと思った。小さくても個性のある墓碑にしよう、そう思っている。

昭和20年3月14日の大阪大空襲で、連れ合いの父親と母親、兄と姉は自宅の地下室で焼死した。鉄筋コンクリートの地下室の防空壕は安全だと思いこんでいた家族は、避難もせずにそこに居続けた。

米軍のB29爆撃機からアメアラレと投下された焼夷弾を受けて建物は炎上し、その物凄い熱は、一気に地下室を襲った。「バケツリレー」などで消せるような火力ではなかったはずだ。

報道管制下にあった各新聞は、既に東京を焼き尽くしていた焼夷弾の威力を、大阪には伝えていなかった。ウソの情報ばかりで、真実が国民に知らされていなかったための悲劇だと言えよう。三階建ての診療所と家は、爆撃後一週間もくすぶり続け、遺体は地下室の中で燃え尽きて、灰になってしまっていたという。

霊園が市街地から離れていたために墓は焼失を免れたが、墓に葬るために集めようとした家族の「骨」は、無残にも灰となって、掬い上げようとする手からこぼれ落ちた。

その夜、勤労動員されて大阪城の裏手にあった砲兵工廠で高射砲を作っていた16歳の連れ合いだけが、奇跡のように生き残った。

翌朝、瓦礫と化した街の中を黒焦げの残骸を避けながら帰り着いた自宅の場所には、出迎えてくれる筈の母親や家族の姿はなく、あちらこちらを探し回っても家族の情報は得られず、集合場所とされた所で、いくら待っても誰も現れなかったのだそうだ。

あまりの事にそれからしばらくは茫然自失の日々が続いたという。そのために、当時の記憶はあいまいであり、特に弔いや墓にまつわる事、誰をどのように葬ったかを、全く覚えていないという。無理もないことだと思う。

移転の手続きのために霊園事務所を訪れた時、霊園管理の事務所員は、何枚かの必要書類を提示しながら、古い棚から茶色く変色して少し破れかけた分厚い「帳面」を探し出し、それを繰って、父親の名前を見つけ出してくれた。そして、その時の埋葬者の名前や人数を教えてくれた。そこには連れ合いの父親が墓の使用権を買った当時の値段も記されていた。

「158円」、、、

昭和15年当時の支払い記録がきちんと残されていた。

「返却分は、、もう長い年月ですから、、」

と、言いながら係員はなおもページを繰り、

「20円、、、ですね」と言って笑った。「20円!、、」私たちも思わず笑った。

「お義父さん、20円はもういいですよね!浜松の小さな墓に移ってくださいね」

3月14日が一家の鎮魂の日となってから、永い年月が経っていた。建立の日からもう70年、、雨上がりの霊園では、雲の切れ間から弱い陽が墓に差しかかって、早春の蒼い空がゆっくりと広がりはじめていた。(2009.3.05.)  



 
メロン昔話

静岡県は活発な農業県といってもいいのだろう、地場の野菜や果物を地場消費することを熱心にPRしている。東海地方は、これから「メロン」の最盛期を迎える。

メロンは世界中に多くの品種がある。ミネラル豊富で、カリウム、カルシウム、マグネシウム、リン、ナトリウム、鉄を含み、オレンジ色の果肉のものはカロチンが多く、果実の中でもその含有量は多いのだそうだ。又、メロンには水溶性の食物繊維であるペクチンが多く含まれ、それが滑らかな舌触りを感じさせてファンが多い。

連れ合いはこのメロンがことのほかの好物で、メロンという言葉だけで顔がほころぶというほどのメロン好きだ。スイカやウリといった水っぽい果物が好きではないおババは、もとはスイカと同種だったであろうメロンもあまり好きではない。しかし、カリフォルニアメロンはある事がきっかけで好きになった。安価な割には甘く、一個でたっぷりとおなかが大きくなる。勝手につけたカリフォルニアメロンと言う名前は勿論正式名ではない。多分ハネデュー(Honey dew )という種類の一種ではないかと思っている。大きな玉で、一個2kg 以上はあるだろう、大きくてつるっとした白っぽい緑色の薄い皮で、ねっとりとした甘みがある。

浜松に来て3年目、少し遠出をした帰り道、御前崎灯台から浜松方面へ向かうのに、ジジ運転手はどうも東名高速には戻らず、このまま国道を行くつもりらしかった。まあ時間はいっぱいあるおまけ人生の二人だから、どうでもいい話だけれど、ゆっくりと走りながらしきりに道端を気にするそぶりにいささかうんざりして聞いてみた。

「何を探してんねん?」

「ウン、、いや、別に、、」

こんな返事の時は絶対に何かを探している、しかしあまりおおっぴらに言いたくもない事なのだと承知しているから、しばらく様子を見ることにした。それにしてもかなりの脇見運転、気が短いおババは又聞いた。

「何を探してんねん?言ってくれれば私が探す!危なくて身が縮むし、、」

「メロン!メロンやねん、、」

「メロン?どうして道端ばかり見てんのん?」

「いや、、昔この辺でメロン買うたことがあるやん、、いっぱい出店があったやろ」

「えっ?いつのこと?」

それが40数年前のドライブ旅行の時のことだと気がつくのに多少の時間がかかった。もう半世紀にもなろうかというあんな昔のことを、、

「この時代にメロン小屋が出てるはずがないやん!何年前だと思ってはんのん?こんな車の多い国道の道端なんか、危のうて、店なんか出されへんよ」

「そうか、、そうやなぁ、、道端は危ないわなぁ、、でも一軒くらいメロン屋はありそうなもんや!」

その昔、まだ高速道路もない頃に、新婚旅行と言うのも憚るような、まるっきり予定のないドライブの旅をした。コンテッサ(伯爵夫人)というリアエンジンの車は、おババが嫁に来なければならなくなったきっかけを作った事故のために、修理後の調子もイマイチで、クーラーもなく、8月の終わりの猛暑に悲鳴を上げながらドタドタと走った。座席の白いシートカバーには、すぐに丸い汗じみが二つついた。名前の優雅さなんてどこにも感じられないバタバタのメタボ夫人だった(笑)。

東海地方をぬけて横浜から東京、そこから日光へ向かい、中禅寺湖周辺に出る予定だったが、その途中で静岡県を通過した。その時、道端に「メロン売ります」という板っきれの看板がひっきりなしに出てきた道があった。「メロン、300円」今の300円ではない、44年も昔のの300円だからそんなに安くもなかったのだろうが、「安い!」と感激して、二つも買い求めた。それを旅館の部屋で半割にして食べたのが、まことに美味しかったというのだ。買ったという事実だけはおぼろげに覚えてはいるが、その味なんて言われてもおババは覚えてなんかいない。

「ここらへんやったと思うねん、、、」

ジジはまだ諦めてはいなかった(笑)。

小屋がけの店なんて、もう出てるはずがないから、ひたすら大きな看板を探して、ようやくフルーツの店を見つけた。マスクメロンには少し時期が早いとかでハネデュメロンが出ていたが、それを見つけたジジは嬉しそうに抱えてきてもう離すはずもなかった(笑)。

「それ、ホンマのメロンじゃないよ~」

「うん、でもエエねん、これもうまいよ~!あの時も美味かったやんか!」

「あの時?そうか!カリフォルニアの時やね!」

「静岡道端メロン」から数年後、ツアーでカリフォルニアへ旅行した。この時はまだ飛行機の事情が悪く、アメリカ国内便で予約再確認の電話を忘れてしまった添乗員のおかげで、本来飛行機に乗るところを急遽ワゴン車で行くことになってしまったのだった。一日かけて延々と走り続ける車が休憩で停まった小さな農園に、そのメロンが山積みになっていた。夏休みの時期だったから、アメリカの西は乾燥して暑く、ノドがカラカラに乾いていた(ペットボトルの水なんてまだなかった)ので、そのメロンがジューシィでまことに甘露で美味しかったのだ。その時にそのメロンをどうしても持って帰ると言ったのがほかならぬジジだった(いやいや、当時はまだ40代の前半だった)。それも5個入りの箱を4個も!こんな美味しいメロンは日本にないから(今はスーパーでいっぱい売っている)、お土産にするというのだ。まだ若く、主婦経験の浅かったおババも、反対どころか大いに賛同して、持って帰る手続きに奔走した(今思えば、ほんまにアホやった)。

税関や検疫を通過する手続きもかなり手間がかかった(検疫では一個を割って調べられた)が、とにかく羽田空港で(当時は成田空港はなかった)4箱のメロンを受け取ることが出来た。乗り継ぎ便で伊丹空港(大阪空港)までこの箱を持って帰らなければならないことに、ここで初めて気がついた二人は愕然とした。

その日の羽田空港は、前日の台風で足止めをくらった乗客と、遅れて到着する帰国便から降りてくるお客とそれを出迎える人でごったがえし、正月の明治神宮の賽銭箱の前のようなありさまで、押し合いへし合い、立錐の余地もなかった。汗で鼻からずり落ちるサングラスを外してもバッグに入れることも出来ないほど空間が無かった、どこを探しても荷物用のカートなど一個だに残っていない。4箱のメロンは出口の隅っこのようやく確保した地べたに積んだままだった(よくぞ踏んづけられなかったものだと思う)。

航空会社にかけあおうにも、そこまでたどり着くこともできない、たどり着いたところでカートなどあるはずもない。どうしよう、、大阪行きの乗り継ぎカウンターに行く時間もせまってきているのに、、

ここでメロンの番をしていろと言い残して、行ったきり姿も見えない連れ合いにこちらの心配も極限に達した。何とかこの箱を積むものを探してこなくては、、、近くに座り込んでいたオバサンにメロンの箱を見ていてください、とお願いしてカウンターまで近づこうと人を掻き分ながら進んだ、向うからなにやら大声が聞こえる、みるとバカでかい荷物車を押して「どいて!どいて!」と怒鳴りながらノロノロ進んでくるジジが見えた。周りの人たちは迷惑顔ながらなんとか避けてくれている。ウワ~!あんな大きな荷車、どこで手に入れたんやろ、、

当時の航空会社に少しコネクションがあったジジは、乗客の入れないところまで行って、この車を借り出してきたらしかった。人をかきわけ、汗びっしょりになりながらメロンを置いてあるところまで戻り、番を頼んだおばさんに一個を進呈して、今度は二人で「どいて!通ります!!危ないからどいて下さい!」と怒鳴りながら、乗り継ぎ場所に向かった。

何とか大阪行きの便に間に合い無事帰宅して、メロンをご近所に留守番のお礼としてお配りした。それはそれは大変なメロンだった。今同じことをするとしたら、とても体力的にできっこないし、それよりなにより、メロンを購入することをしなかっただろう、トシをとって少しは先のことを考えられるようになったからだ。これは、若いということの意味をいろいろに考えさせられる出来事として、ジジババの心に焼き付いている事件のひとつなのだ。バカだったなぁ~、、と。

食べ物ほど手軽に人を嬉しがらせるものはないのではないかと思う。美味しいもの、好きなものの前では誰でも笑顔になり、幸せ顔になる。あの時はまだ若かったジジ(笑)は、キッチンで半割りならぬ小さく切ったカリフォルニアメロンの角切りがどっさり入った鉢を抱えて、嬉しそうにひたすら口にはこんでいる。もう少し経てば静岡メロンは旬を迎える。きっとまたあのメロン屋に行くと言い出すに違いない。

5月の遠州灘の風は微風、満開の薔薇に陽は暖かく笑いかけ、浜松は一番いい季節になった。(2008.5.26.)
 


曇り日のナイスミドル

雨が続き、蒸し暑い梅雨の季節でも、曇り日で湿気が少なく、雨の落ちない日があったりする。そんなある日、久しぶりにクールな熟年男性にお目にかかる機会があった。しかも、関東の、いわゆる「東男」である。

約束の時間ジャストに玄関前に立たれたのは、60にチョコチョコッという感じの落ち着いた物腰の人だった。柔らかな動きと響きのいい声で、ゆったりと話をされる。淡々と用件を話され、順をおってよどみが無い。一つ一つの所作がいちいち引っかからない、要するに角が無いのだ。そうかといって、相手におもねるふうは微塵も感じられない、このナチュラルさはどこからくるのだろう。大阪のザワザワとした雰囲気のオトコ達とはどこかちがう。あたりに一瞬、ハイカラな東京の風が吹く.

普段、「東京モンはイナカッペばっかしやん!地方から出てきた人達が集まって出来たような雑多な荒い世界が東京やし、はんなりした文化と人間の素養の高さでは、伝統ある関西とは比べもんにはならへん!」なんて言うていた自分が、なんやしらん後ろめたくなるような、まさにオババのカルチャーショック!だいたい、このトシになって、まだカルチャーショックなんて喚いて、驚き慌てていること自体が、すでにアカン!

最初からパンチをくらい、ジャブを小出しにされた挙句、アッパーカットで仕上げされたような気分で、しどろもどろになって一向に話がうまく回転しない。
方向転換して、はやばやと奥の手を出すことにした。タベモンならまだ巻き返しが効いて、先手が取れるかもしれへんし、、

せっかちの連れ合いが、伝(つて)を頼って手に入れてきた「仔牛の脛骨」からとったダシは、うまく味が出て、腕がイマイチのオババのスープでも本物の味に近くなったらしく、冷たくしたビシソワーズとサンドウイッチを
「これは美味しい、、いい味ですね、、」と、まことに素直に舌鼓を打ってくださる。

関東人は濃い味好きのベロ音痴、あの「関東ウドン」を見てみなはれ、食べる気ィしまへんでェ」などと揶揄していた大阪オババはもう、黙ってしまうしかない。

少し間をとりながら、話題も豊かに、耳触りのいい言葉で、パソコンを始められた頃の苦労話や、趣味でされているの手びねりの陶芸の事もさりげなく、標準語の美しい日本語がするすると繰り出されてくる。

昔しゃべっていたことのある言葉なのだけれど、大阪人の嫁ハンになってからもう40年、すっかりしゃべり方を忘れてしまったものだから、もういけまへん、顔は引きつってくるし、言葉はワヤワヤ、、、われながら情けない有様とあいなってしまう。

途中、外出先から忘れ物をとりに飛んで帰ってきた素っ頓狂な連れ合いは、威儀を正して挨拶をされるお人に「いや、イヤ、はぁ、ハァ、、ゴニョ、ゴニョ、、、」と、言葉にもなっていないことを言いながら、そそくさと又出かけて行く、、ナンチュウコッチャネン!!と思ってみてももう遅い(笑)

子供の頃泣き虫で引っ込み思案だった弟が、一家を構えてから、大勢の人達の前で挨拶したり、会議を取り仕切ったりしているのを見て、仰天したことがあった。男性は大人になってから、激しく成長する人と、まったく子供のままで止まってしまう人とに二分されるのではないかと思ったりした。

エッ?!女?、、女はみんな激しく成長します!!

夕食時、大阪モンは言いました。

「これ、ボクの買うてきた骨でダシとって、作ったん??フ~ン、、やっぱり骨やな!これは外へ食べに行かんでもエエわ!家で結構や!」

「・・・・」

ナイスミドルとまでは申しません、せめてグッドジジィくらいはいってもらわんと、、

エッ?よそさんではちゃんと話す?!きちんと挨拶する?!ホンマですか?

アンタかて、気取って、口廻らんようになったんやろ!おんなじやないか!

梅雨どき、つかの間の曇り日に吹いた爽やかな風は、翌日、台風になった。2004.6.12.   



ワクチンてんやわんや

朝の診察時間の1時間前から電話のベルがひっきりなしに鳴って、準備や掃除の手をとられてしまう、あぁ今年も年末になったのだなと思う。

インフルエンザのワクチンが不足してきたとNHKがニュースを流し、マスコミ各社もこぞってワクチン不足を記事にする。これが毎冬の定番のようになってしまった。
今年は大丈夫、暖かい師走で流感も出ていない、ワクチンが余らないかとさえ思ったほどだった。しかし、この報道をきっかけに接種希望者が急増した。

12月のこのような事態に備えて、ワクチンを充分に用意し、メーカーにも予約を入れていた。11月のうちに1回目を終えた患者さんは、12月に入るとすぐに2回目の接種になる。早めに対応すれば今頃になって慌てることはないのだが、わァ~っと世の中が騒ぎ出してから、われもわれもと希望者が増えるのだからたまらない、ワクチンはたちまち不足になり、あっという間にメーカーの在庫も底をつく。

受付係りは、予約ノートに名前、回数、電話、予約確認書と、かかりっきりになってしまう。窓口では「受験生なんです!流感に罹ったら困るんです!」と、今頃になって予約を、と声を大きくされる。本当に心配なら、11月のうちに済ませたらよかったのに、、と思うものの、強引に押し切られてしまう。そうこうするうちに、2回目の接種者へのワクチンも確保が難しくなってくる、品切れなのだ。

冷蔵庫の中の残り少ないワクチンの箱数を確認し、1回目の接種も出来ない患者さんのために、2回目の予約ワクチンを諦めて頂くようにとお願いする羽目になってしまった。

「それってあんまりやないですか!2回予約していたのに!」と電話の向こうの声はとんがっている。「申し訳ありません、1回目も出来ない受験生の方にお廻ししたいので、お許し下さい」、、、、

マスコミ各社サマ、どうか10月末頃から、早めに接種するようにと、記事を出して下さい!

てんやわんやの小さな医院の事務方は、どこへもぶっつけようのない泣きたい思いを抱えながら、年末が過ぎるのをひたすら願っている。(2003.12.20)



師走の青虫

12月になると、クリスチャンでもないのにクリスマスリースを作るようになってから何年かが経った。そのために我が家のボロ庭には2本のクレストと1本のヒバの木が植わっている。毎年、後ろ半分が坊主になるほど切られてしまうのに、春になれば、芽をふき、次の12月には、またリースの素になってくれる。

今年も忙しい合間を見つけて、半日の作業にかかった。まずゴミ袋にいっぱいの葉っぱを採って来て、それを大小2つの種類にわけて大きさをそろえた葉の束を沢山作る、それを輪にした太い針金に少しずつ置きながらくくりつけていくのだが、この作業はかなりの根気と力が要る。作業台いっぱいに葉っぱを広げて選別していると、なにやら動くような気がする、、おかしいナとよくよく見たら、なんと「青虫」!春に若葉を食べに出てくるあのアオムシである。

驚いてしまった。こんなことは今まで1度だってなかった。冬も師走になってから、アオムシがヒバや杉の木にいっぱいいるなんて、何か勘違いをしているに違いない。

11月は記録的な暑さ!?だったと、昨日の新聞に出ていた。きっとそのせいだ!雨も多く、3日にあげず降っている。そういえば今年の紅葉も薄ぎたなくて、ちっとも美しくなかった、、そう気がついてすこし心が騒いだ。何か起こるのではないか、、いや、もう既に、地球規模でさまざまな変化が目に見えてきている、そのうちにきっととんでもないことが起こる!もぞもぞとヒバの葉の中を動き回るアオムシをつまんでは捨てながら、いや~な気分になった。

6個のリースを5時間程かけて作り上げ、そのうちの1個を玄関に吊るしたが、このリースに特別の魔よけのオマジナイでもかけておかないと、、、災厄が降りかかってこないと、誰が保証してくれる?アオムシを20匹余りも寒風の外へほうり出した罰がこのおババにあたらないとはかぎらないではないか。

夜遅く片付けを終えて外に出てみたら、久しぶりに晴れ上がった夜空には満月に近い月が出て、煌煌とあたりを照らしていて明るい、捨てたはずのアオムシは、どこかへ這って行ったたらしく、影も形もなかった。どこかにねぐらをみつけたのだろうか、、お~サムッ!今年1番の寒さがやってきた夜のことである。



ドジョウの蒲焼き

「ドジョウ、泥鰌、どぜう」、、もう今の子供達はこの魚が食べられる物だとは知るまい、実際にその姿を見た事も無いに違いない。ほんの昔!?50年ほど前まではドジョウは田舎は勿論のこと、都会でも食卓に登り、常に食することが出来た。農薬を使わない田圃には、どこでも隅の水だまりにドジョウはかたまって泳いでいたからだ。

田舎の夏は短いなりに暑く、冷房などと言う言葉は聞いたこともない時代には、夏バテを防ぐ為に夏の間は「ドジョウの蒲焼き」がよく食卓に出てきた。朝、大きなざるの中ににょろにょろと沢山のドジョウが白い泡と共に入っているのを見ると、その姿はあまり好きではなかったが(丸ごとのドジョウはいかにも気味悪かった)今晩のご馳走への期待に心が弾んだ。

親戚の伯父さん(昭和20年代のグルメだった)が熱い豆腐の味噌汁に活きたドジョウを放り込み、熱がって暴れた末に豆腐に頭を突っ込んで昇天したドジョウを美味そうに食べるのを見て、びっくり仰天し、以来その伯父さんまで嫌いになったことがあった。そんな少女時代のある日を思いだしたのは「土用の鰻」が話題になり、鰻も美味しいけれどドジョウの蒲焼きも美味しかったと、田舎の家に久しぶりで集まった人達で話が盛り上がったせいだ。

当時、砂糖はまだ貴重品だったが、蒲焼きにはけっこうな量の砂糖が使われた。甘辛いタレは甘さに飢えた子供には魅力だったし、なにより男衆さんの小刀さばきを見るのが面白かった。召集を受ける男衆さんはいつも決まっていて、庭仕事や大工仕事の男衆さんとはちがって、妙に粋で、その刃物を持つ手がしなやかで反り返り、見るからに器用な料理向きの手をしていた(体力が無く、すぐにへたばるので料理番を命じられていたらしいが)

台所の土間に七輪がしつらえられ、炭が真っ赤におこって来て、パチパチとはぜだしたら彼の出番だ。まな板の上にくねるドジョウを置き、器用に目打ちを頭に打ち込み(この時ドジョウは必ずキュウ!と泣いた)小刀でズーと開いて骨をとり、あっという間に5cmくらいの「開き」が出来上がる、何しろ沢山の数だから最初は色々と冗談を言いながら開いていた男衆さんも段々無口になり目も真剣になり、そして少し疲れて来る。

7人や8人の家族は当たり前の時代に、一人あたり10匹としても100に近い数を捌くのは大変な作業だったに違いない。「こら!成仏しろ」等と怒鳴りながら逃げ出そうとするドジョウをつかみ、裂いていく。あたりはドジョウの血で汚れ、生臭いにおいが立ってくるが、どういう訳かその情景が酷いとも気持ち悪いとも感じなかった。多分次に来る香ばしい匂いの魅力の前にはこの「ドジョウ殺し」は単なる通過儀式だと思い込んでやり過ごしていたような気がする。

それにしても、いつも、かぶりつきで見物して飽きなかった。男衆さんは最前列で熱心に自分の手元をにらんでいる女の子に幾分気負って格好をつけ、少し大袈裟に小刀を扱った。(この男衆さんも、10年程前に癌で逝ってしまった)

裂いたそばから網にのせて焼きに入るが、これは大婆様が取り仕切った。絶妙なタイミングで開いたドジョウをくるくるとひっくり返して、焦がし過ぎないように適当な焼き色をつけていく。タレはお手伝いの女子衆さんが手際良く何回も塗って仕上げたように記憶している、そうすると母親は何をしていたのだろうか、その現場の記憶に全く母親は登場しない。東京育ちの母親にとっては見るに忍びないドジョウ裂きだったのか、あるいは弟か妹を身ごもっていた為、残酷な景色から遠ざけられていたのかもしれなかった。

後年母はドジョウは嫌いだったが「蒲焼き」だけは好きで食べられた、と言いながらも「鰻の蒲焼き」の方が数段味が良いと小声で言って笑った。江戸前の鰻に比べれば、いかにもドジョウは小さく貧相で栄養の点でも劣っていそうに思うが、当時はそれを言うのは贅沢で罰当たりだったのだろうし、お姑様である大婆様に聞こえたらおおごとだった。

男衆さんの「南無阿弥陀仏」「なんまんだぶ・・」の片手拝みの声で儀式は終了し、手早く現場は片づけられて、後は香ばしい焼きの匂いの中でみんなが笑顔になり、振る舞われたちょっぴりのお酒に「裂き手」はご機嫌になり、全員に蒲焼き丼があてがわれ、ハフハフとただ食べることに専念して夏の幸せな夜は更けていった。「ドジョウの頭」の佃煮風煮つけを下げて料理番が帰って行くと、山村の夜は急に静かになり、暗さが一段と増すように思えた。



62才のタキシード

その小さなホテルのパーキングはいっぱいだった。近くの下鴨神社の駐車場へ車を置き、急いで飛び込んだエレベーターには先客が乗っている。

あれっ!花婿さんだ、、グレイのタキシードの花婿さんは手に今着いたらしい祝電の束をわしづかみにしている。せわしない様子でそれをめくりながらチラッとこっちを見る、、仰天した。今日の主役である大学時代の友人だったからだ。

「エッ!?あんた?」と言ったきり絶句してしまう。

「お互い、歳やから、ほんの披露のパーティやねん、軽い気持ちでちょこっと参加してや」と案内を貰って、出かけてきたが、まさかタキシードを着込んで、カトレヤの大きなコサージュまでつけているなんて予想だにしなかった。

どうりで少し髪の薄いお婿さんだと思ったはずだ。「イヤーよう来てくれて、おおきに、あそこが控え室やからチョット休んでてや」と慌ただしく駆け出していく、昔からちょこまかと身体も心も動かす人だったけれど、それにしても、、と呆然と見送った。

招かれて集まった友人4人は顔を見合わせてびっくりしながら、期せずして大笑いになってしまう。

「思い切った事するやっちゃなあ」

「俺は出かける時知り合いに出会って、どこいかはんの?って聞かれたから友達の結婚やっていうたら、

「へ~?葬式の間違いやおまへんかって冗談言われてしもうたわ」

もう一人の友人は白い袋にパックされた心臓の薬を飲みながら

「とても真似出来ません、、僕はまだ、正確には還暦になってへんのやけど」

「・・・・」

S女史はうなって、「このぶんではお嫁さん、ウエディングドレスやねえ、良い事やわ、凄い事やわ」

どうぞと案内された入り口には金屏風の前に綺麗なお嫁さんとあの婿さんが並んでお出迎えだ。

4人は思わず立ち止まってしまう。「まあぁ、おめでとうございます、綺麗なお嫁さん、何時の間に何処で?!」「うだくだ言うてんと、はよ席に着いてや、アンタ等の席は「禄の席」やからな、あっちや、そこそこ!!」

終始照れ笑いの婿さんはようやく席についた。スピーチは真面目なものは最初だけ、あとはもう、やっかみと、ようやるという驚きと、羨ましいとの励ましが続く。勤めていたテレビ局時代の友人達の辛辣なジョークと派手なお話と音楽。

最後は婿さんの「マイウェイ」の歌でお開き。はじめっから食われっぱなしの結婚パーティだった。

大学時代は60年安保闘争の頃、彼もせっせと集会に顔を出して河原町のジグザグデモにも参加した。

大学の教授が休講すると、授業料が勿体無い、と抗議に行ったりもした。そして卒業すると放送局へ入り、程なく出来たテレビ局に移り、以後支局長を勤めて定年を迎えた。その間、後輩の美女を射止めて結婚、暫くは順調だった筈だった。

お互いに生活して行く事に必死な時期は音信が途絶えてしまう事もあったが、そんなある日S女史から電話がかかり、彼の奥さんが胃癌で亡くなったと聞いた。まだ四十才そこそこだった筈と、驚いて駆けつけた葬式で、打ちひしがれながらも参列者に気を遣う彼を見て、慰めの言葉も無かった。

お棺に取り縋って泣いておられた奥さんの実家のお母様の姿が何時までも胸に残った。

暫くして、番組を九州方面へ売り込みに行くという彼と偶然に梅田の鰻屋で出会った。

夜行に乗る前の僅かな時間に夕食を一人で食べている所だと言う。華やかなテレビ界を陰で支える厳しい営業の仕事が察しられて、気にかかった。

奥さんを亡くしてからすぐに開かれた同窓会では「目下、クレイマー・クレイマーをやってます」と言った彼の言葉が当を得ているだけに気の毒だった。仕事と二人の子供の世話でさぞかし大変だろうと、みんなが再婚を薦めたが「今は無理やねん」と中々再婚もせず、還暦も過ぎてしまい、もう友人達も最近は何にも言わなくなっていた矢先の、この「快挙」だった。

当時まだ小さかった二人のお子さんはもう立派に成人して、父親を何かと気遣う様子が微笑ましい。

娘さんの肩に手をまわして「娘のお陰ですわ」「お父さん!肩を組む人が間違ってますよー!」

お嫁さんは50才で、祇園のクラブのオーナーだったと言う事で、すんなりして美しく、しかもしっかりした感じがして落ち着いてはる、照れてうろうろする彼とは大違いに御挨拶もきまって、もう貫禄がある。これなら大丈夫、きっと素晴らしい第二の生活が始まるだろう。「こんな格好、大袈裟やろ、、彼女が結婚式は初めてやから、その」「外国でちょっと式だけ挙げようとも思うたんやけど、彼女がいややと言うし」

ハイハイ、、ご馳走様でした62才にタキシードは見事に似合い、嬉しさが咲きこぼれていた。同じ年配の方々で、黒のライン入りのグレイのタキシードに身を固め、自分の結婚式をする自信があると言う人は何人おられるだろうか?!とてもとても、、そのお腹ではタキシードのボタンが飛びますわなぁ。

「又機会作るし、集まってやー」

「いぇいぇ、暫くは近寄りとうはないですわ、ねぇ」「あほくさ!飲みにいこか」

今年一番の寒波襲来と言う寒い日の、心が暖まる熱いお話でした。



日本人のギャルソン

日本人の若いウエイターがパリの有名カフェのギャルソンに採用されたというコラム記事を読んだ。たかがコーヒーを運ぶ係りじゃないか、と言うのはマチガイのようだ。ピカソやサルトルにも愛された歴史と伝統あるそのカフェはでは、ギャルソンの採用基準が厳格で、19世紀から「右利きのフランス人」という条件を長い間守ってきたという。そこへ東洋人の31歳を登用したということだからニュースにもなろう。れっきとした専門職なのだ。

大学卒業後、アルバイトで入った日本のカフェでウエイターをしてノウハウを磨き、さらなる上を目指してパリに渡った彼は左手と右手を使い分ける技と身のこなしでフランス人を圧倒し、高齢で引退した老ギャルソンに代わって抜擢されたのだそうだ。

左手には銀盆をささげ、右手では伝票や代金のお釣りをポケットから瞬時に取り出す必要があったため、左腕には筋肉がつき、右手の指は繊細さを増したとか、スゴイことである。
日本のようにレジ係が特別にはないことが多いフランスのカフェでは、支払い関連の仕事も大きなウエイトをしめるのだろう。多分このあたりに彼の出番を開いた鍵がありそうだ。物を買った時、瞬時にお釣りを暗算できるのは日本人の特技、これを武器にして自分の特性を磨き上げていった31歳の若者にエールをおくりたい。

外国に住み、その国独特の仕事で日本人が名をあげることは現地人の3倍の努力がいると聞いた。天性のしなやかな肢体と運動神経、それにフランス人におとらない顔つきと身のこなし、発音の難しいあのフランス語の会話、そして「気配り」。

売り上げた飲み物の15%とチップの収入は、同じ年頃の商社マンの給料を凌ぐという。若いうちにしっかり頑張って、いい結婚をして、豊かな老後を過ごしてほしい。くだらないニュースばかりの日曜日の新聞記事で一番の読み物だった。

じっくりとヨーロピアンコーヒーでも、お淹れしましましょうか、、ハンサムなギャルソンではありませんが、オババがお運びいたします(笑)(2005.9.4)



線路の音    

その線路の枕木の間には春になると土筆がチョコチョコと芽を出し、しばらくすると青いツギツギ草(すぎな)が、かたまってあちこちにツンツン生えた。1時間に3本程しか走らない単線の電車のダイヤでは、春草の芽吹きの勢いの方が強かったからだ。

土地の子供達は遊びに飽きてくると、線路に繰り出した。ポーッという警笛の音がすると一斉に線路に耳をつける。まるで津波が襲ってくるかのような・・低い地鳴りのような音が次第に音量を上げ、耳にかぶさって段々大きくなってくる。ゴウン・ゴウン・グオーッ・・もうすぐ電車が来る!「ポーッ・ポー」

カーブを曲がって緑の木々を押し分けるように進んで来る電車の先端が向こうに見えるやいなや、みんなさっと線路から下りて素知らぬ顔で通過する電車を見送る。ゆっくりとと走る電車でも、風圧は子供達にとってはかなり大きく、息をつめてしっかりと脇道に立っていなければならなかった。通過するやいなや又一斉に耳を線路につける。すると今度は反対に、耳に響き渡っていた轟音は、段々潮の引くように小さくかすかになり「カタン・カタン・カタカタン・・」と消えていく、ただこれだけのことなのに無性に楽しかった。ちょっぴりスリルもあり、飽きることがなかった。

冬はかなりの降雪がある雪国のこと、一晩中雪が降り続く時は、夜の間中除雪の機関車を運転して線路に雪の積もるのを防いでいた。その時はいつもの「ポーポー」という音では無く、「ピーッ!」という鋭い警笛が地吹雪を切り裂くように何度も響いていた。夢うつつでその音を聞きながら眠った。

線路が町の西側を取り巻くように敷設されていて、町並みの途切れるあたりから山地に入って行く。曲がりくねった山すそを縫うように伸びた線路は、途中で冬鳥越え(ふゆどりごえ)というロマンチックな名前のついた小さなスキー場の駅を通り、七谷(ななたに)を上り下りし、交差する電車を待って停車したりしながら隣町まで小一時間もかかってのったりと走っていた。

旧式のビンディングのついたスキー板を担いだ乗客を乗せて、電車は重たげに頭を左右に振りながら、ゴトゴト走った。そんな昔のある日、ブレーキが効かなくなり、七谷付近を猛スピードで下り出したことがあったという。あわや転覆かと思われたが、当時の車掌が、とっさに自分の履いていた長靴を脱いで、床の点検口から突っ込んで、電車を止めたとか、その事件は、まるで見てきたかのように話す爺サマ達によって、伝説のように語り継がれていたが、それもこの頃は知る人も少なくなった。

やまあいの町の玄関である駅は、人と物と、そして文化の出入り口だった。戦時中は、召集を受けたにわか兵士が、ぎこちなく挙手の礼をしながら日の丸に送られて出発して行き、敗戦後は、命からがら生きて帰った復員兵が、疲れた足取りで降り立った。進駐軍の米兵が、ジープの上から薄荷の匂いのするチューインガムをばらまいたのもこの鉄道の駅だった。

しかし日本が高度成長をとげ、各家に次々と自家用車が入るようになると、本数の少ない電車は忘れられ、冬のスキー客も近代的な設備のある上越地方の大きなスキー場に移り、小さな鉄道はたちまちその必要性が薄れていった。そして、やがて山間部の方の路線は廃線となった。

かろうじて残ったもう一つの町と連結している路線も、この夏にも廃線の予定だと聞いた。走らせれば走らせるだけ赤字が出るという会社側の経営上の問題は、どうしようもないのだそうだ。保線区の人員も足りなくなって、全てバス路線に切り替えられていく。

かって煤煙を撒き散らし、嫌われて引退したSLが珍しがられて復活し、週刊誌のグラビアを飾り、鉄道マニアの人気を集めている陰で、過疎の町の鉄道は次々と廃線に追い込まれ、消えていく。

今はもう子供達は線路で遊んだりはしないし、ましてやあの神秘的とも言える地底からの声のような轟音が聞こえる線路に耳をつけたりもしない。
あの吹雪の闇を切り裂く警笛の音は幻の音になってしまった。  





 台湾、この愛すべき国

    
  故宮博物館                          衛兵交代


「台湾は国ではない!台湾は中国の一部だ!」

と、中国本土からの留学生のシェレンが台湾からの学生ブランダンに向かって言い放った時、思わず、「日本人は台湾は国だと思っているよ」と言ってしまった96年夏のカリフォルニアの、あの教室の風景が思い起こされる。確かに台湾は今は一地域ではある。だが、経済力は中国本土を越え、GNPは増え続け、順調な輸出は日本についで貿易黒字国である。

この近くて最も親日的な「国」(アジアの他の国、韓国、や中国などなどは、みんな日本の植民地支配時代を蛇蝎の如く嫌い、その時の様々を「謝れ」と言うが、「台湾」は日本に好意的だ)を一度覗いて見たかった。

本来の台湾らしさが残ると言われる台中、台南、を駆け足で廻った。「日月タン」は雲も無く、風もなく、絶好の日和だったが、気温25度、暖かいと言うより暑い、台北はもう少し低いと聞いてホッとする。寒い大阪から着て来たコートが重い。新品のバスは冷房をいれている。道路は予想外に広く、ハイウエイは軍事を考えて、滑走路になるように作ってあるそうだ。

ガイドの簡さんは呆れるほどのスタミナと愛嬌で次々と旅程をこなし、一年半の東京滞在で覚えたという達者な日本語は、その勉強法を教えて欲しい程の立派なもので、日本語の敬語の無意味さや、あいまいさを指摘した上、日本人は日本語を大切にしないで外来語ばかり取り入れた挙句、その外来語も発音が日本語的で世界に通用しない「私は日本の外来語を話すと、舌がヘロヘロになる」と、手厳しい。

夜は屋台の見学!?商店街は活気に溢れ、遅く迄明かるく、屋台には見た事も無い食べ物が所狭しと並んで、大声の北京語が飛び交う、「釈迦頭」と言うお釈迦様の頭そっくりの果物や、マンゴスチンなどのトロピカルフルーツ、蛙や臓物もある。それはそれは雑多だ。マンゴスチンは見た目とは違い、割ると白い果肉がチョコンと現れて、甘く南の味がした。

街には「汽車」という看板が多く、これは「自動車」の事、本来の汽車は「火車」と聞いて納得がいく。「麦当労」(もっと古い漢字があててあった)はマクドナルドの事だそうな。看板の漢字を読んで居ると面白くて、時間があっという間に経って飽きない。

一月一日は日本のお正月とて、初詣に行った。(台湾のお正月は旧暦の二月)お寺には信仰心の厚い人々がお線香を何度も上げ下げして真剣に祈っていた。日本の遊び半分の初詣風景とはちょっと違った真剣さが感じられる。寛容な国柄そのままに、神様も仏様も渾然一体に祭られると聞いた。浅草の浅草寺の参道のように、お店が並んで様々な物を売っている、「小豆」が目についたので聞いてみたら、1kgほどで、たったの100元、400円たらずである。思わず買い込んでしまう。(帰国しておぜんざいにしたら、小粒ながら美味しく、日本の物と変わらない)生活必需品は安くするのが台湾政府のやり方・・とはガイドさんの弁。日本は反対やなぁ・・お米は高いし、野菜も高い、勿論小豆などは高い、高い。

原住民族は九族あり、九族文化村博物館となって公開されている、この民族博物館を見学中に一人の年老いたお爺さんから声をかけられた

「ニッポンの方ですか?」「どこから来られたのですか?」

こぼれそうな笑顔と丁寧な物腰に驚いてしまった。

「日本語がお上手ですね」

「ハイ、一生懸命勉強しましたから・・」

今はもう懐かしい程昔の、「日本の老人」そのものだった。日本統治時代の日本語教育の名残が六十歳以上の台湾の人の「日本語」として残っている・・複雑な歴史が姿をのぞかせていた。

お茶・砂糖・工芸品・翡翠・などの豊かな物産はヨーロッパ列強が目をつけない筈はなく、オランダの台南占領、スペインの北部占領の後、日清戦争後日本が台湾を手に入れ、第二次大戦の終結までの約50年間植民地として支配して来た。いったんは中国に返還されたが、蒋介石の率いる「国民党」は台北に建国の狼煙を上げ、中国本土と袂を分かつ。その後も中国人の台湾への流出は続き、台湾経済社会は繁栄を誇り、世界に認められる貿易大国して成長してきた。

ガイドの簡さん曰く「30年も遅れている中国と今更一緒になるなんて、台湾の人々は誰も賛成しない、アメリカか日本なら考えてもいいけど、二の香港にはなりたくない」という

台中の「日月タ譚」の風景は琵琶湖を彷彿とさせ、さすが台湾第一の景勝地だったが、やはり台湾を語る時、台北の「故宮博物館」を除く事は出来ない。「故宮」とは、あの「紫禁城」のことを差す。元々は北京にあった物を1948年、内戦の激化にともない国民政府は主要な物を台湾へ運び出した。

いかにして此れほど多くの文物(70万を越えるらしい)を運んだのか、これには時の日本も輸送に参加し、協力したのだと言う、「日本に感謝している」とガイドさんは言った・・宋時代から清時代までの歴代の皇帝が権力の限りを尽くして集めた物は素晴らしく、何日も通わなければその全てを見る事など出来ない。この文物が台湾へ運ばれた過程でも、きっと多くの人々の生と死の物語があったに違いない。世界に誇る台湾の宝、故宮博物館。此処だけはもう一度ゆっくりと時間をかけて見学したい。


台湾・四川・北京・海鮮・湖南と、料理は多彩で夫々に味わいが異なるうえ、異国のバーベキュウも「B.B.Q.」となって台湾風焼き肉野菜料理に変身、台湾の人々の幅広さの一端を感じる。勤勉で活動的、そして楽天的で大陸的なおおらかさを持つ人達、この愛すべき「国」台湾に幸多かれ!

「謝!謝!」 1999.1.5.


PCリカバリーの顛末

今年もそろそろ夏の挨拶葉書のシーズンになりました。「Mさんからの葉書、スッゴイ綺麗!」やっぱりソフトを入れ替えようかな、、、、

これが悪夢の始まりになろうとは露知らず、思い立てばすぐさま実行、ルンルン勇んでショップに行きました。選んだのは「楽々葉書」大型の箱はイラストがチリバメられて、それはそれは魅力的な顔で誘っています。即断即決が身上のおババはそのソフトがウインドウズ98に適応することだけを確かめて、代金を払い、急いで帰ってきたのでした。

インストール開始、メモリーも充分だし、付属の画像CDも入れてしまおうかなと思いましたが、それは待てよと、思いとどまったのは、今思えば不調の予感があったからでしょうか。

今までの「筆まめ」は年賀状の出来はともかく、一般葉書の仕上がりが、もうひとつ気にくわないところがあったので、早々におさらばすることにして、ここから宛名を読み込み、ハイ用済みよ、とばかりに「筆まめ」をアンインストールしました。

さあワクワクのカード作りです!イラストが沢山あって、まるでクラブのホステスさんのような名刺も出来ます。かねがねHPのURLを聞かれることが多かったので、アドレスを入れ込んだ名刺カードが欲しかったのも事実です。出来上がったものに印刷をかけていると、いきなり警告です「リソースが危険です、、、」なにが危険やねん!いっつも脅かすねんから、、、無視しておこう、大体パソコンは大袈裟や!と作業を続けました。その夜は上手く出来た葉書やカードに「やったぜ!」と嬉しく、HPの掲示板に「新しいソフトはルンルンワクワク」と、いい気な文章の書き込みまでして、大満足で眠りについたのでした。

翌日ようやく仕事が一段落、PCを立ち上げました、ジャーン!バッ!パッ!、、、、あれっ?モニターの中のアイコンの幾つかが現れない!しかもタスクバーもスタートだけが現れて、あとはなーんにも出て来ない!もちろんカーソルもフリーズして動かない!
何分待ってもダメ、仕方なくリセットをかけました。しかし、、、同じ状態で途中で止まる、、もう一回、今度はCtrlとAltとDeletoで再起動をしてみました。しかし出るも入るも出来ません。

何回やっても再起動はするものの、タスクバーはグレィの空白のまま、、カーソルもまるで靴底から足の裏を掻いているような手触りで、石のように固まって、反応がありません。繰り返すうちに再起動も強制終了も出来なくなってきました。にっちもさっちもいきません。「もうっ!なんでやねん!はらたつ!」ヴァイオカスタマーサービスに電話することにしました。こんなことを繰り返していたらPCそのものが壊れそうな気がしてきたからです。電話が混んでいるとかで待たされた挙句、ようやくのことで担当の若いお姉さんが応答をしてくれました。PCの状態を訴えると、、、

「分かりました、○●キィと××キィを押しながらDeletoキィを叩いてみて下さい」

電話とPCは離れています。しまった!携帯で電話したらよかった!と思いましたがもうあとの祭りです。もう一度電話し直すと、また応答の順番を待たねばなりませんし、このまま続けるしかありません。それからはまるで運動会のスタートの練習のように、電話とPCとの間を行ったり来たり、ダッシュの繰り返しです。しかもそのたびに老眼鏡をかけたりはずしたり、必死になって言われるようにキィを叩いたり押したり、電話に戻って話しをしたり、思い返しただけでもアホらしい有様でした。小一時間もやりとりしていたでしょうか、ついにお姉さんは、、、

「これでダメならもう手はありません!固まってしまっていますので、リカバリーをかけて下さい」

「えっ?リカバリー?!それはなんですか?」

「PCを工場から出た時の状態に戻すことです。お手元にリカバリー用のCDがあるはずですからそれをPCに入れて指示に従って下さい」

「そ!そんなことしたら、今までのものがなくなるじゃないですか?!」

「そうです!バックアップはお取りでしょう?」

「それは、、、まぁ、、、取ってあるのもありますけど、、、」

「今日までのバックアップを取られていないものは今回は諦めていただくしかありません」

どうしよう、、、、リカバリーCDは3枚が封も切らずに引き出しに入ってはいる、、、でも、、、やってみようか!、、、いや、やっぱりPCの師匠先生にお伺いをたててからにしよう!何かいい知恵を貸してくださるかもしれない、、、今までだって何回もがけっぷちから引き上げて下さったのだから、、、


お邪魔致します。
好事、魔が多しのたとえ通り、えらい事になりました!
PCのデスクドライブが今朝から動かず、PCバイオのカスタマー相談のお姉さんと一時間ほどやりとりしましたが、固まってしまっているからリカバリーデスクで初期化するしかないということで、どうしようも無くなりました。

初期化をしたらバックアップしていないファイルが全部消えることになりますね。何とかならないかと一日いろいろとやってみましたが、同じ状態で、どうにも困りはてました。

昨晩いい気になって「楽々はがき」をインストールしたりしましたので、何か不具合が生じたのかと思います。
修理屋に出す前にお伺いしてみようと連れ合いのPCでこれを書きました。ご指示いただければ幸甚です。

 今やまったく死んでいる自分のPCを横目で見ながら、もう一年半も触っていない古いNECのPCのキィボードの埃を払って、残っていたExchangeを使い、お願いのメールを出したのでした。5年前、医師会PC同好会発足時に多くの先生方が購入された機種でしたが、現在もこれを動かしているのは、うちの連れ合いくらいでしょう。激しく叩くと今にも壊れそうで、ソロソロとしか動かせません。これを壊したら連絡の手段がなくなる上、連れ合いが大好きな麻雀ゲームが出来なくなる、、、そう思うと、あまりこれに頼るわけにもいきません。携帯メールを使うことにしました。

師匠先生からすぐさま返信メールが入ってきました。もちろんPCの不調を考えられてのFAXも送られてきました。いつもながら行き届いた気配りの師匠サマです。

出かけていて帰宅したところで、メールを頂き、驚きました。おそらく、昨日インストールされたソフトが関係しているような気がします。そこで対策ですが、リカバリーディスクを使う場合、とりあえず、

1)初期化せずににファイルを復元するのを選び、これでリカバリーをする。こうすると、Cドライブのデータファイルのかなりのものが残せます。といっても、失われるデータもかなりありますが...あとダイヤルアップネットワークの設定とか、設定し直さなければなりませんが

2)これで駄目なら、ハードディスクを初期化してリカバリーを行うほかはないでしょう。Cドライブの全てのデータは消失します。この場合でも「パーティションサイズを変更する」は選んではダメです。これを選ばなければ、Dドライブのデータは手付かずに残っています。パーティションまでいじると(これは全く触れる必要がないのですが)Dドライブの データも、消えてしまいます。この選択を念には念を入れて行う必要があります。初期化をせず、上書きでリカバリーを試みるのが大事で、これがダメと分かってから、初期化してリカバリーすれば良いのです。 恐らく、上書きで成功するのではないでしょうか?

ハードディスク自体が壊れていたら、もちろんこれも不能ですが、その時は全部がダメとあきらめなければなりますまい。まだ新しいハードだから、寿命とは考えにくく、やはりそのソフトの せいではないかという気がします。
特殊な修理屋は、壊れたハードディスクからデータを取り出すことができるのかも知れないですが、普通は初期化してしまうのではないですか?
なお、ホームページに送ってあるファイルは、パスワードを教えて下されば、ダウンロードして、CD-Rに焼いてお届けしますから、そのファイルだけは、元通りになります。このくらいしか、お役に立てず、申し訳なく残念です。メールのほかに、FAXでも同文をお送りします。
これを読んでリカバリーを決断しました。

携帯から 「パスワードは*****です、HPのバックアップCD、宜しくお願い致します」と、送信するやいなや、リカバリーCDのNO1を挿入!・・・リリ~リと携帯が鳴っています。頭を冷やしましょう!!リカバリーはあしたに、、、Safeモードで立ち上げてみる方法、電源を入れ、CTRLキィを押し続けていると 「Startup menue」が現れます。safe モードの番号を入力してEnterキィをおすと Windowsが最小限度の設定で起動します、、、

・・・・だって!もうリカバリー始めてしもうたもん、、

「どうせ修理屋に出しても初期化してしまうのでしたら、イチかバチかリカバリーやってみます!」

リカバリーの真っ黒い画面はいかにもおどろおどろしく、ジワリジワリと進んでは「今●キィを押したらキャンセルも出来ますが続けますか?本当にいいですね?!」などど、途中何回も脅しをかけてきます。これはきっと酷いことになるに違いない、、、やっぱり止めておけばよかったかなぁ、、、と思いつつ、もうヤケクソで「続ける!!」と言いながら画面を睨んでおりました。2枚目も入れろ!との指示に、CDの入れ替えをします。またもや「キャンセルすることもできますが続けますか?」と聞いてきます。「続けるって言うてるやんか!」と怒鳴りながら血マナコで睨み続けました。

この間の不安と恐怖、後悔、慙愧の念は、しなびた肝っ玉を揺さぶり続け、PCが不安定どころか、お婆の方が心身共に不安定さが極限に達し、胃袋が飛び出しそうな思いです。待つこと30分あまり、恐怖のリカバリーは「完了」イタシマシタ、、、
立ち上がって来たモニターを見て目をみはりました!がっかりしたのなんのって!アイコンは小さく豆粒くらい、字は眼鏡をかけても見えないほど小さい、、これはなんや!??

しかし元のショートカットのアイコンなどはそのまま残っているようです。ヤレヤレとほっと一息、今夜はここまでと、寝ることにしましたが、気になって眠るどころではありません、僅かな睡眠ののち、朝を待って復旧工事です。なんでもかんでもすぐ忘れるようになったこの頃、錆付いた頭には酷な作業がいっぱいです。部屋中に同好会で連れ合いが頂いてきた書類が散乱、お目当ての指示書はなかなか見つかりません。目が釣り上がってきます。PCの周りはだんだん惨状を呈し、誰も近づいてもきません。

「いかがですか?往診いたしましょうか?」とのメールが入ってきました。ご親切に師匠先生からです。助かった!と一瞬思いました。しかし、5年間もPCに付き合ってきて、何回も同じ事で安易に往診をお頼みするのもあまりに情けないではありませんか!あの5年前の「パソコン物語」の世界に逆戻りになってしまいます。しかも今日は日曜日、ここは一番、自力でやれるところまで頑張ってみよう!!


おはようございます。
昨晩は失礼いたしました。先生から「頭を冷やせ」とメールを頂きましたが、時すでに遅く リカバリーCDを挿入しモニターを睨んでおりました。結論から申上げます。リカバリーは「成功」というのでしょうか、後から入れたソフトもそのままで、いらぬショートカットまで沢山ついた形で復活しました。

HPは「D」に入れておりましたので、これも無傷と思われます。(先生がバックアップして下さったものは、後日是非いただかせて下さい!)ご指示のように「初期化せずに復元」を選びましたので殆どが残っておりました。 心からお礼申上げます。ただインターネットの接続関係、ダイヤルアップネットワークの設定やモデムの設定等など、これからやろうと思っている所ですが、なにしろ前のことは全てきれいさっぱりと頭から消え去って、なにをどうしたのかも思い出せない状態です。

この設定関連を先生の「ウインドウズの使い方」の本と首っ引きでしようとしたのですが、少し違う個所もあってうまくいきません。この設定の手順をご教授いただければ、ホンに有難いと思っております。NECのパソコンが今日は使えます。例のExchangeも動きますので、お教え下されば頑張ってみます。
そばの電話が呼びだし音のみであとはピー!とFAX音だけしている。おかしいな?もしかして師匠先生がFAXで指示書を送ろうとされているのかもしれない(時にFoolの親分に変身しはる師匠先生のことやし、、、)でも昨夜はチャンとFAX番号の方へ入っていたから、先生ではないかもしれない、、、どないしよ、、、又リリリと電話、出てみるとピーっとFAX音。やっぱり番号を間違えてはる!!これは聞いてみた方がいいかも、、「ファックスを送っていただいているのでしょうか?只今2回、電話の方へファックスが入るピー音がしました。もしやファックスなさっておられるのではないかと思っております。072ー891ー****がファックスです!スミマセン、、」すると今度はFAXの呼び出し音、、

上書きでリカバリー成功された由、さすがですね! FAXでお送りしましたがメールでも送信しておきますね(笑)
VAIOのお姉ちゃんと1時間も相談された結論が、リカバリーと拝読したものですから もちろんsafe モードでの立ち上げも試みられたとハヤトチリし、あとでもしやと気がつき、あわててメールした次第です。

インターネットの接続関係、ダイヤルアップネットワークの設定やモデムの設定の件ISDNをお使いでしたね、それなら1.TAのモデムが残っているかどうかの確認(おそらく残っているのでしょう)1)マイコンピュータ→コントロールパネル→モデム2)モデムをダブルクリック→モデムのプロパティーここで、モデムが二つ載っていればOKもし一つなら、TAのモデムをインストールする必要があります(TAに付属してきたCDかFDから選択ることになります)

2.TAモデムがインストールされているとして1)マイコンピュータ→ダイヤルアップネットワークをダブルクリク2)ここに以前作たダイヤルアップネットワークの接続セットが残っていれば
(例えば、ASAHI-TAなどの名前のセット)3)それを右クリックしてプロパティを出し、市外局番 072、電話番号8612650を入力してOK4)次にこれを、ダブルクリックすると、接続の窓が表れるので、 ここのユーザー名に、●×、、 を、パスワードにパスワードを入力し、パスワード保存にチェックを入れる。

3.ダイヤルアップ接続のセットが残っていない場合は1)新しい接続をクリック、接続名を例えば、ASAHI-TA とし、モデムはTAの方のモデムを選択し、次で電話番号 8612650を入力していと、新に ASAHI-TAというセットができる。

4.このセットをダブルクリックしてASAHIネットに接続した状態で、IEを起動するとマイクロソフトのHPが表示されるので、ここに池田医院のURLを入力し、ツール→インターネットオプション→全般タグで「現在のページを使用」をクリック  OK
ツール→インターネットオプション→接続タグでダイヤルアップの設定でASAHI-TAが表示されているのを確認、通常の接続でダイヤルするにチェック OK

5.メーラーOE?を起動してツール→アカウント→インターネットアカウント→メールタブ→プロパティで以下受信メールサーバー:pop.asahi-net.or.jp送信メールサーバー:mail.asahi-net.or.jpなどを注意されたら良いと思います。

リカバリーにも上書き、初期化、D:まで初期化の3種類の方法があるのを理解したのは失敗をして初めてわかったことでした。だから、その轍を踏まれないようにと直ぐにおもったのです。あの場合、Safeモードで修復出来たかも分からないので、それに気がつくのが遅く、また●子サマが私と同じにすぐさま行動に移られる方だったため、その試みが試せなかった のが申し訳なく、また残念です、、、

6.あるいは、インターネット接続ウイザードから順に入力して行く方法もありますスタート→プログラム→アクセサリ→通信→インターネット接続ウイザードこれをダブルクリックして、立ち上げ、指示に従います。

一からインターネットやメールの再セットアップをしなければなりません。途方にくれていたお婆にとっては、このFAXは天からの声!神サマからの贈り物!でした。何が自力やねん!結局、指示書のお世話にならなければ何にも出来ないのです。
ほーらっ!!慌てる乞食は何とやら、やんか!Safeモードとやらを試した後にしたらよかったのに!でも、、あのお姉さんの指示でブルーの画面になってはみたもののダメだったんだもの、仕方ないか、、、デモデモ、、もう一回、師匠先生の指示に従ってやってみたらよかったのに、、あーぁ牡羊座のあわてモンが!アホや!と嘆息してみても始まらないのでした。

Ak先生もビールス騒動でリカバリーを経験なさったとか、だから先生のHPはいまだNot Foundで消えたままなのかなと、妙なところで納得したりしながら、ソロソロとデスクトップのカスタマイズにとりかかりました。

やたら字が小さく画面も見づらく、元のように使いやすくするにはまたもや先生にお教えを請わねばなりません。

デスクトップのプロパティから設定で画面領域を800×600にすることや、文字の設定や、フォルダ関連の設定の変更にいたるまで、すべてご指示願ったのですから、5年前とちっとも変わらず、進歩はゼロであることが、はからずも立証されてしまったというわけです。

WordとExcelは上書きされてしまって、使えません。OfficeのCDでこれをリカバーしなければならないことも、カスタマー相談に再度電話して知りました。もちろん、保存してバックアップも取っていないファイルは消えてしまっているにちがいありません。

そのOfficeのCDも、購入した時に設定した後は必要ないものと思い、貸し出してしまっていたことも忘れ果て、部屋中探し回った挙句、とうとう諦めて、またまた恥知らずにも師匠先生に直訴です。

すぐにそのCDがメッセンジャーによって運ばれてきたことは申すまでもありません。

そのCDを見た途端、そうだ!娘の所へ貸し出したままだったんだ!!なんでこういう風に最終段階になってから気がつくのでしょうか、、、慙愧のいたりでした。

そうこうしてPCは徐々に以前のカタチに戻り、消えたはずの古い手紙も住所録も復活してきました。勿論、ニックキあの「楽々葉書」は、最初に放り出しました!実害のあったのはメールのアドレス帳です。

しかしこれは整理を怠っていた罰と思わねばなりますまい。そのうちに皆様からメールを頂いた時に、改めて作り直していけば、何とかなるでしょう。古いPCのアドレス帳からコピーすれば、半分は生きるかもしれません。大山鳴動ネズミ一匹、なんとなく大騒ぎが恥ずかしく、とりわけ大層なご迷惑をおかけした師匠先生には申し訳ない思いです。何回も励ましメールを携帯で送って下さったMuさん、心配して掲示板に書き込みをして下さった会長先生には感謝感激でした。

師匠先生はこの合間をぬって、「パソコンが不調な時の対応の方法」という題で、ご自分のHPに対処法をきっちりと整理されてUPされたのですから、これをカミワザと言わずしてなんと言うのでしょうか、言葉もありません。

ボチボチと更新し続けてきたツタナイHPもCDに収まって、届けられてきました。有難いことです。無地で玉虫色のCDを開いてみようと、美しくキラキラと光っている面を上にしてソロリとセットしてみました。何にも出て来ません!?愕然として、もしや親分サマがサラのCDを間違えて届けて下さったのかもしれないと思ったなんて、、、口が裂けても言えません!!(笑)そのCDは、裏返してセットしたら、キチンとすべて出てまいりました!あ~もう何をかいわんや!!FooもFool!このFoolに関してだけが「出藍の誉れ」でゴザイマシタ。2001.6.30.
(ご指導を賜ったBOW先生に感謝をこめて)

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