日本昔々
「48年ぶりの金メダルです!」と、TVのアナウンサーが絶叫しています。あの東京オリンピックから、48年もの年月が過ぎたのだと、あらためて思います。
1964年10月、36才と26才だった私共は、結婚して2ヶ月。市民病院勤務を辞め、小児科医院を開く予定だった主は、土地を探し、家を建てたところで、資金は底をついたようでした。玄関にかける医院の看板も、まだ白いままでした。青いトタン屋根の小さな家の中には何もなくて、台所の隅に、薬品が入った中型のドラム缶だけがありました。ほこりをはたき、よごれを拭いて、その上に小さな分厚い白黒テレビを置いただけの新居でした。薄ぼけた画面から歓声が聞こえ、日本のバレーボール選手(後に東洋の魔女と呼ばれました)が、金メダルを獲得した瞬間が写っていました。なぜかその時に、魔女達がはいていた黒いブルマーが、今でも目に焼きついています。カラーテレビなんて、まだまだ高嶺の花で、日本人は、みんな、その日その日をおくることに精一杯の時代でした。
あれから48年、、若かった夫婦は、いつの間にか、84才と74才になりました。思い返して、語り始めればきりがない程に、様々な事がありました。嫁は、ただただ一生懸命に、与えられた場所で、与えられた仕事を、一心にやってきたと思います。今ならば、「とてもやってらんない」と思うような医療の雑事を、何の疑いもなく、体力にまかせて徹夜をして、やり続けていました。それは、ず~っと後になってから、ある先生に「これは器械にやらせるもので、人間がやる仕事ではない」と、言わしめた仕事でした。若かったからとしか、言いようがありません。
主が仕事から引退し、浜名湖の近くに終の棲家を求め、二人で住み始めてから7年が経ちました。今年夏、ロンドンオリンピックが開幕し、猛暑のさなか、空調した快適な部屋で、のんびりと、イギリスから送られてくる鮮やかなハイビジョン映像を、大きなデジタルテレビで観ています。日本人は、もの凄く贅沢な暮らしをするようになりました。
敗戦直後の悲惨な食糧難、上を目指して這い上がっていく時代、そして、礼節も品格も置き忘れて、追い求めた高度成長、金銭的価値が総てだった時代は、すぐに泡となりました。あぶく銭は身につかないのです。このような、世界にも例を見ないほど変動の激しかった日本で、様々に変化する社会の状況を見ながら、暮らしの技術が進んでいく有り様を、実際に感じつつ、生活できたことは、非常に幸運だったと思います。経済的にも、精神的にも、高みへ上ろうとして努力する時代を、つぶさに見て、経験することができたのですから。
大震災や原発事故の後でも、大方の日本人は、大きな不便を強いられたりは、していません。勿論、被災地への気配り、節電や節約を心がけているものの、基本は、安泰のように見えます。様々なひずみを抱えてはいますが、日本人の民度は確実に上がり、世界から、その節度ある民族性が、評価されるまでになりました。本当にそうなのかどうかは、まだ議論のあるところですが、、
そして、日本のハイテクのワザは世界の最先端をゆくものになりました。ここ20年ほどの間のコンピュータ技術の進歩は、ものすごくて、こんなちっぽけな老人の戯言をも、瞬時に世界に向けて発信することが出来るほどになりました。その意味では、実に有り難い時代です。
私共は、4年後のオリンピックを、話題にすることなど、もう出来ないトシになりましたが、今の幸せを感謝しながら、願わくは、終わりの着地をしっかりと決めて、人生を金メダルで締めくくりたいものだと、思うばかりです。虫がよすぎると、笑われそうな気もする、48年目のオリンピック雑感でした。 (2012.8.20.)
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